葬儀社の感動の押し売りに辟易する
感動葬儀って言葉を聞いたことはありますか?
葬儀の縮小が顕著になり売り上げが低下していく中、葬儀社が売り上げを伸ばすために講じた策の一つが「感動」を商品にする事でした。
そんな商品として扱われることになった「感動」について考えていきたいと思います。
感動を演出するということ
勘違いしていない?
葬家と打ち合わせを重ねたうえで作り上げる葬儀の中に感動をうまく組み込むのであれば良いのですが、私が最近多いなと感じているのは「小手先」の演出による感動、チープな感動の演出です。
特に感動の演出をすることに酔っている葬儀社や担当者は最悪です。
広告などに「私たちはこんなことをして葬家の方から感謝のお言葉をいただきました」なんてフレーズも見ますね。
中には打ち合わせもせずに「サプライズでこんな演出をしたら凄く喜んでいただいた」など、独りよがりな演出に感じてしまうことも散見されます。
感動を演出するということは、果たしてそういうことなのでしょうか?
葬家の気持ち
宗教感の薄れにより葬儀に感動の要素が入ってくるのは必然かもしれませんが、望んでもいない感動演出をされたとき、葬家の気持ちはどうでしょうか?
内容に本当に感動し、葬儀社や担当者に感謝する方もいるでしょう。
逆に、望んでもいない事をやられ、感動したでしょ?と言われても困惑するどころか憤慨してしまう方もいるかもしれません。
内心そう思っていたとしても表に出せない場合も多いでしょう。
「いまいちだったけど考えてやってくれたのだ」「それなりの費用をかけているのだからいまいちだったと思いたくない」などと納得していまう葬家もいると思います。
本来「葬家の気持ちに寄り添い、葬家のためにやっている」というモチベーションだったものから、感動を演出することにより売り上げが伸ばせると感じ「感動を与えたい、感動を商品化して売りたい」という葬儀社の独りよがり感が表に出てきているように感じてしまいます。
寒々してしまう演出の数々
今まで見聞きしてきた中で感じた、あくまでも個人的な感想です。
異なる感性の方、気分を害される方も多くいると思いますので、先に断っておきます。
そのような方はスルーしていただくか、ゆっくりと本記事を閉じていただければと思います。
故人の好きだった色の小物を身に着けて
これは参列者も巻き込んだ演出です。
故人の好きだった〇〇色の小物を葬家と参列者に配り身に着けてもらい葬儀に参列してもらい、その小物は持ち帰ってもらう形になります。
好きな色の小物を身に着けることを強要される参列者も大変です。
男性や女性、着ているものなど参列者により違うので身に着けるのも一苦労する場合もあります。
葬家も小物の費用を負担する必要がありますし、受付にて小物を一人一人配り身に着けてもらうよう説明する必要もあります。
これらの労力を使ってまでどれほどの感動が得られるのだろうかと思ってしまいます。
結婚式ができなっかたおばあちゃんに
これは葬儀の担当者が葬家にサプライズで演出したものです。
故人が結婚した時、時代の影響もあったのか結婚式ができなかったエピソード聞いた葬儀社の担当者は、先に亡くなっていた故人の夫と天国で結婚式を挙げてもらおうと柩の中にウエディングドレスを入れてお別れをする演出をサプライズで行ったようです。
葬家はえらく感動してくれたみたいなのですが、一つ疑問に思ってしまうのは「そのドレスの費用はどこから出たのだろうか」という点です。
葬儀社の持ち出しということも考えにくいので、その費用はしれっと葬家に請求されているのだろうと考えると腑に落ちない部分も出てきます。
故人の好物であり得意料理のカレーライス
故人の好きだった料理を通夜振る舞いや清めの料理にする演出です。
これは参列者も巻き込まれます。
食事の席に着いたとき、通常の料理を想像していたら想像の斜め上を行くカレーが出てきます。
その時に故人が好きで得意料理だった事を説明されたとして、故人にカレーを作ってもらったことのある葬家や一部の参列者以外は状況が呑み込めないでしょう。
今回はカレーライスでしたが、その他様々な料理で代用可能で、カレー以外にもキッシュだったりパスタ等様々なケースを聞きます。
葬儀の料理で斜め上のものが提供されたときの空気感はどんなものなのかと思ってしまいます。
その他様々な演出
その他にもたくさんの演出を見聞きします。
中にはよく考えられている演出もありますが、その演出は自分たちが酔っているだけのものも散見されます。
日々葬儀社は葬家に感動を与えようと様々努力しているようですが、努力の方向性はあっているのだろうかと思ってしまいます。
葬儀に意図的な感動は必要なのか
葬儀は故人とのお別れの場でもあるので少なからず感動的な場面は存在します。
しかし、それは意図的な感動ではなく、不意に訪れる感動的な場面だと思います。
今までに紹介した意図して作る感動のシーンは葬家の事よりも葬儀社や担当者が感動を与える事が主になっているようにも感じられ、最終的にはその感動のシーンに自分たちが酔いしれるためだけのツールになっているのではないかとすら感じてしまいます。
家族葬や無宗教の自由葬が増えてきた背景もあり、思い出(心)に残る葬儀が重要視される空気感の中、葬儀に感動は少なからず必要だとは思います。
ただ、その感動は葬儀社の独りよがりのものではなく、葬家との打ち合わせを重ね葬家と共に作り上げていく事が大切なのではないかと思います。
このブログを読んでいるそこのあなた!
「葬儀での感動」や「自分の葬儀や家族の葬儀」について、今一度考えてみるいい機会かもしれませんね!